1945年8月9日。当時、日本と中立条約を結んでいたソ連が、突如、条約を破り、日本人が住んでいた満州、南樺太、千島列島へ侵攻。多くの人が、北海道へと船で逃げました。しかし、待ち受けていたのはソ連軍でした。
北海道留萌市。鈴木きよ子さん(97)には、忘れられない光景があるといいます。
ソ連の攻撃を受けた鈴木きよ子さん:「ドカーンという音がした。死人から米から石炭カスやら飛び上がってきた。死んだ人がドタンドタンと落ちた。ソ連じゃないかとわかった」
きよ子さんは、頭を撃たれ、生死をさまよいました。
ソ連の攻撃を受けた鈴木きよ子さん:「真っ赤な火箸が焼けたようなのが、ビュービュー飛んでくる。頭を焼け火箸でかき回されるような、どうもこうもならない苦しみ。痛い苦しい、熱くて熱くて」
ソ連の攻撃により、船に乗っていた多くの命が奪われました。留萌市には、その証言を裏付ける機密文書が眠っていました。『ソ連潜水艦隊への命令書』には「第1極東戦線は、北海道北部占領の任務を負う。8月24日未明、占領軍の留萌港上陸予定」と記されています。
なぜ、ソ連は中立条約を破り、日本を攻めたのでしょうか。答えを求め、元アメリカ陸軍将校のデヴィッド・グランツ氏を訪ねました。
デヴィッド・グランツ氏:「ソ連に対日参戦を促したのはアメリカです」
終戦間際のアメリカは、日本の捨て身の抵抗で、多くの犠牲者を出していました。そのため、ソ連にも参戦を求めていました。
デヴィッド・グランツ氏:「しかし、ソ連は、何らかの“見返り”がない限り、侵攻には消極的でした」
1945年2月のヤルタ会談。なかなか動かないソ連にアメリカは参戦の“見返り”を提示。密約を結び、終戦後、ソ連に千島列島、南樺太の領有権を認めたのです。しかし、スターリンは、その領土だけでは満足しませんでした。
スターリンからトルーマンへの書簡:「北海道北部を含めること。境界線は、釧路市から留萌市に至る線上とする」
なぜ、ソ連は、北海道北部まで手に入れようとしたのでしょうか。日ソ戦研究の第一人者に聞きました。
カリフォルニア大学・長谷川毅名誉教授:「クリール(千島列島)を占領する。太平洋から道を閉ざし、出口を獲得する。北海道の北端をとらないと、オホーツク海をソ連の内海にすることができない。将来を見越して、アメリカと敵対するであろう。北海道北半を占領するかしないかが、戦後の米ソ関係に非常に大きな影響を与える」
北海道が欲しいソ連。渡したくないアメリカ。加速する両国の駆け引き。鍵となったのは原爆でした。
カリフォルニア大学・長谷川毅名誉教授:「アメリカは原爆を投下すれば、ソ連が戦争に参加する前に日本を降伏させることができるであろう。ソ連の参戦は必要なくなる。スターリンとしては、ヤルタで約束された“見返り”を確保するためには戦争に参加しなければならない。原爆投下とソ連の戦争参加、2つの競争があった」
原爆が投下されると、ソ連は8月9日に参戦します。
デヴィッド・グランツ氏:「スターリンが原爆投下をみて、日程を早めたのは明らか。自らの政治目標よりも早く日本が降伏することを恐れた」
しかし、参戦から6日後、日本は降伏。アメリカが北海道まで譲ることはなく、ソ連が攻めてくることはありませんでした。
あれから77年。再び始まった戦争。
ソ連の攻撃を受けた鈴木きよ子さん:「ソ連のやり方、今のロシアのやり方、同じだなと思って。自分の国さえ良くなって、広くなればいい、領土をとっていけばいい。子ども、女性、見境なしにやる。自分がそういう体験をしてきているから、辛いだろうな、苦しいだろうな、どうやって生きているんだろうな。ウクライナが一日も早く平和になりますようにと祈っている」
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